あなたは、緩和ケアを知っていますか?
緩和ケアという言葉は耳にした事はあるけれど、よく知らない。そういう方々も多いかも知れませんね。
人はたいてい健康な時に死について身近に考える人は少ないものだから。
でも今日はあえて、「もし自分が癌になったとしたら・・・。」とちょっとネガティブな事をここで考えていただきたいと思う。
なぜなら、この緩和ケアの知識を少しでも持っているか持っていないがで、あなたは癌と宣告された場合において、天と地ほどの違いがあなたの闘病生活に現れるだろうと推測されるからである。
まさに今この瞬間でさえも、緩和ケアの存在を知らずに、癌の痛みに苦しんでいる方々が沢山いるのがいまだ現実である。
癌の痛みはモルヒネの使い方しだいで上手に処方すれば、取り除く事が可能である。
ガンの痛みは取り除く事が可能な時代に、今なお痛みの中で死の恐怖と闘っている多くの人がいるという悲しい現実。
私はそのことが、歯がゆくてならない。
あなたの癌がもうどうにも手をつけられなくなった時、最期を迎えるまでの間を痛みを感じずに過ごせたらいいと、思いませんか?
癌は痛くて苦しんで死ぬ。いいえ。痛みを緩和してくれる場所があるんです。
緩和ケア。ホスピスという場所です。
この緩和ケアの存在を知らない人が多すぎる。
私は一人でも、多くの人にホスピス治療(緩和ケア)の素晴らしさを知って欲しいとう願いを持っています。
また日本中に広がり、緩和ケアを日本中何処ででも誰もが受けられる世の中が来る事を切に願っている。
私がこの緩和ケアの存在を知ったのは10年前のことだった。
母が大腸癌になり、肝臓に転移し、いよいよ残りわずかの命と宣告された時、ホスピスに入ったのである。
10年前の4月21日。
桜の花びらが散り行く中で、母は静かにこの世から他界して逝った。
ごめんね・・・。嘘をついていた事。
大腸ガンが、肝臓に転移し余命数ヶ月を宣告された時、信じていた家族に裏切られたと感じた母。
私の家族は母にガンの告知をすることがどうしてもできなかった。
具合が悪くなり救急車で初めて病院に入院した。
「腸閉塞だろうから手術しておなかを開いて見ましょう。」と言われ、母も勿論私達家族もまさかその直後に真っ暗闇に突き落とされるとはその時誰一人予想した者はいなかった。「腸閉塞なら治る病気ね。」と以外に楽観視していた。
しかし手術後医師から伝えられた言葉はあまりにもショックな言葉であった。
「大腸癌でした。」
大腸の癌により、腸は閉塞をおこしていたのであった。
「大腸の癌は取り除きましたが、肝臓にも転移がみられましたが、かなり大きな癌なので、もう手術は難しいでしょう。」
これが、術後の医師からの言葉だった。
「余命1年。あるか、ないか。」
末期の癌が見つかった母に、そのことを告げることは出来なかった。
「お母さん腸閉塞だって。」あの時はああいうしかなかった。
しかし隠していても、知識のある母には最後まで隠し通せるはずもなかった。
自分がガンだと知った母は迷わず私達家族にこう言った。
「ホスピスに行く」
私たちに選択権はなかった。
「ホスピスに入りたい」と強い意志で語る母に私達が出来ることはもう何もなかった。
「ホスピスってどんな所なんだろう?」
母はそこで死にたいと言った。
母が最後を迎える場所を選んだのは家ではなく「ホスピス」と言う場所だった。
ホスピスと聞くと、ガンやエイズの人が入る場所。暗く隔離され、死を目前にして、病室からはうめき声が聞こえてきそうな場所。そんな風に思う人もいるかもしれない。
母を無くしこの10年間で、友達や知り合いの方の身内の方がガンの告知をうけ、余命を宣告されたという人達の相談を10人以上受けて来たが、ホスピス(緩和病棟や緩和ケア)の存在を知る人は殆どいなかった。
また聞いたことはあるが「死ぬと宣告された人が集まる場所になんて行きたくない。行かせたくない。」と言われたりした。そのたびに私は母のお世話になったホスピスの話をし続けてきた。
たまにNHKでホスピスの緩和ケアの事を取り上げられても、ほとんど、世の中に認知されず、とても歯がゆい思いがしていた。ガンの死亡率がこれほど高い先進国で何故、緩和ケアの認知度がこんなに低いのか?モルヒネを正しく扱える医師をもっと、もっと、増やしていくべきである。
嬉しいことに先日「とくダネ」と言う番組で緩和ケアが特集されているのを見た。この10年は、悲しいことに緩和ケアの素晴らしさが世の中にほとんど認知されてこなかったが、今日この番組を見て、やっと、ほんとうにやっと、緩和ケアが受け入れはじめたことを、心から嬉しく思った。緩和ケアの記事を新聞の紙面上で見ることが少しづつだが増えてきたように思う。
これから、ますます緩和ケアの重要性が認知されるようになり、モルヒネを正しく使える医師と病院が増えることを望んでいる。
正しくモルヒネを使えば、ガンの痛みは消すことが出来るのだから。
今はまだ病院のベッドでガンの痛みと闘っている人々がほとんどだという現実がある。
緩和ケアを受けて痛みの無い闘病生活を送って亡くなっている人はほんのわずかな、一握りの人しかいないのが現実なのだ。
がんと闘う全ての人達が緩和ケアを受けられるようになる事を切に願わずにはいられない。
10年前に私の母はこの緩和ケアを受けて最期を迎えたが、ホスピスで痛みとの闘いは全くと言っていいほど無かったのを、この眼で見てきた。
信じられないかも知れないがそれは夢物語でも、ウソでもない紛れもない事実なのだ。
私はホスピスに入院してすぐ、母がここに来たかった理由がわかった。
そこは冷たい病院のイメージは何処にもなかった。
母はいっさいの延命措置を望まない人であった。
私たち家族はそれを知っていた。だからこそ、手術が出来る間は母に告知が出来なかった。告知していたなら、肝臓に転移した癌はもう手術は受けてくれなかったんではないかと思う。
大学病院の先生は、大半の医師はこの手術は勧められないといったくらいだった。しかし、その時の担当のK医師がそのことを伝えた上で「それでも、僕は可能性にかけてみたいと」言った。延命治療を望まぬ母には伝えずに難しいといわれた肝臓の転移のガンの手術をK医師にお願いした。
予定よりも長いOPEとなった。
手術後執刀医に呼ばれた。医師は明らかに高揚していた。
切除した肝臓の大きな塊はガンの瘤が不気味にボコボコと盛り上がり、重そうなそれを、医師は両手でずしっりと抱えて、興奮した声でこう言った。
「きれいに取れました。これでかなり生きられるだろう」と。普段顔色一つ変えない冷たそうな顔が高揚し、彼の目は輝いていた。成功率の低い手術を成功させた上での達成感だったのではないだろうか。初めてK医師の人間らしい感情を垣間見た時だった。
母はおかげで、はじめにガン宣告を受けた時に聞いた1年もたないだろう。と言う月日をゆうに超えたのである。そのことは、大学病院のK医師の可能性にかけて執刀してもらった肝臓ほぼ全摘出のおかげだと、確信している。
それから、1年近くK医師との付き合いは続いた。
そして、とうとう厳しくなってきた頃先生は質問攻めの母には隠せないと感じてだろう。母に宣告した。
母は自分がガンであったと知り、かなり私達家族に対して腹をたてていた。なんで教えてくれなかったのかと。
そして「ホスピスへ行く。」と言ったのである。
私はこの10年なぜ緩和ケアがこんなにも、認知されず、世の中に認められてこなかったのか、不思議でならなかった。
ガンは死亡率のトップを邁進し続けているのに、一向に認知されず、苦しみ、苦痛と痛みの中で、ひたすら闘い続けている現実がある。
ホスピスで過ごした日々の中で母は痛みを訴えることは、一度もなかった。ガンの末期の患者が最後まで、人として自分の意思を尊重して生きる場所。
そこには痛みに耐える人々はいない。「有名ながん治療の病院にいたけど、どんなことをしても痛みは取れず、ベットの上で痛みに耐えていたのが信じられない。あのまま死んで行くしかないのかと思っていた。痛みがとれて本当に嬉しい。」と、よく転院してきた多くの患者さんが言っていた。痛みをコントロールするには、その事に熟知した医師のもとで正しくモルヒネを使用することが大切である。ただモルヒネを飲めば痛みをコントロール出来るというそんな単純なものではない。使い方を誤うと緩和どころか悪化する場合だってあるように思う。
ホスピスに来ると寝たきりだった患者さんは、自分の足で歩けるようになったりすることもよくある。
患者さんはもちろん家族もあまりの回復ぶりに癌が治ってしまったのではないかと錯覚に陥ることさえある。
でも癌が消えてしまうわけではないので、笑顔でおしゃべりし、歩いていた人も、徐々に杖を使い車椅子に変わって行く。
そこには死に向かっている。という何よりも辛い現実が共に存在し続けている。
痛みを取り除くことが、人が人として生きることの大きな手助けになる事は、はかり知れない。
「死」を感じながら生きる人にとって、生きる希望をもてる大事な要素であると感じる。
母のホスピスには暖炉があり、大きなテレビとソファー。家族で入れる大きなお風呂や、キッチンもあった。お酒をのめるカウンターもあり、ピアノルームやカラオケボックスまであった。
ボランティアの方々の音楽の演奏などもあり、希望すれば、部屋でリクエストの曲をひいてくれたりする。
病院特有の匂いやカラカラと響くあの無機質な音もない。
広い芝の庭もキレイに手入れされ季節の花に包まれてめだかやかえるがのどかに息をしている。
ホスピスは天国にいちばん近い場所。
私はそんな風に思う。ただ、明らかなのは隣で元気な笑顔で笑っている人も、ソファーで静かに寛ぐ人も、バーでお酒を飲む人も、遠くない未来、もれることなく神に召されるこということ。
だから余命を宣告された方にとっては、どんなことをしても死からは逃げ出すことの出来ない牢獄でもある。もう長く生きられない人と、先のことははわからない人との間に作られた辛く冷たい壁。
でもだからこそ、色々なことを考え、人生の終わりが来るその日まで、管ひとつなく、痛みと闘うことなく生きることを選択できる場所はとても大切で必要性の高い場所であると私は考える。
最期の1%まで、手術を望み管と苦痛の中でこの世を去ったとしても、その方にとっては、最期まで闘い続けたいという希望がかなったなら、それは幸せな終わりだと私は思う。
母のように延命措置を望まない人にとっては、管だらけの体に呼吸器をつけられた姿での人生の終わりは本意ではない。
そんな母は自分の口で物が食べられなくなった時点で点滴もしなかった。
点滴をすれば、栄養が入ってくる。そうすればもう少し長く生きられたはずだけど、それは母の望んだことではなかったから、しなかった。
食べられなくなって、だんだんと衰退していく事が、本来の自然の姿であると思っていたのかもしれない。
それは諦めではないと私は思う。
人は一人で生まれて来て、一人で死んでいく。
赤ん坊は生まれてすぐに物は食べない。お母さんのおっぱいを飲んで生きる力を蓄えていく。
だから人は終わりに近づくと物は食べなくなるのは自然な事だと思う。
生まれて来た場所に帰っていくのだから。
だからそこに栄養を点滴することは、母の思いに反することであったのだと思う。
そんな色々な思いを聞き入れて、力を貸してくれる場所。
それがホスピスだった。
ホスピスに入った母は「娘のおなかにいる子供に逢うことが出来ますか?」
担当医の山崎先生に尋ねた。
「どうでしょうね。逢えたらいいですね。」
12月のある日。かわいい男の子に逢えた。
「3月3日のおひな祭りまで生きられますか?」
「どうでしょうね。そうだったらいいですね。」
母はお雛様と2歳の娘と笑顔で写真にうつっている。
母はこうして短い目標をいつもたてて生きていた。
「先生、今年の桜見れますか?」
「どうでしょうね。見れたらいいですね。」
4月。満開の桜の下に母はいた。近くの公園にホスピスの方達と共に、花見に行った。ポカリスエットをコップで美味しそうに飲みほし、孫の娘にもすすめた。娘はケラケラ母の傍らで楽しそうに笑っていた。
それから、数週間。桜が一面ピンクのじゅうたんとなり、ホスピスの庭を埋めた頃。
「外に行きたい。」「桜が見たい。」と語った母。
もう歩くことは出来なかったが、ストレッチャーに寝かせて、外へ行った。桜をみて、
「もう終わったね。」「散っちゃったね。」
そうつぶやいた。
その晩母はお風呂に入りたいといいお風呂に入った。
人生の全ての垢をおとすかのように。
母の自分のまく引きのカウントダウンはもう始まっていた。
その晩、母はお世話になった山崎医師。婦長さん。仲良しだった姉妹と私達家族を病室いっぱいに集め、たんたんと、感謝の気持ちを述べ始めた。それは母自らのお別れ会であった。
「先生ありがとうございました。お世話になりました。ここに来てよかったです。さよなら。」
「何か不安はありませんか?」先生の問いかけに
「不安はありません。もうじゅうぶんです。」そう言った。
「どんな人生でしたか?」
「あっという間の人生でした。」
「みなさん、さようなら・・・」
お別れ会も終え、母はもう何も反応出来なくなった。あんなにしゃべれて、お風呂にも入れたのにね。
唯一母が反応したのは、私の娘が
「おばあちゃん、さようなら・・・」
そう言ったとき、どんな呼びかけにも反応しなかった母の目から、涙がつぅーと一本流れてきた。
ああ、ちゃんと、わかっているんだな。そのときそう確信した。
その翌日、苦しむこともなく、体には管一つ無く、静かに眠り、すこしづづ体温を下げていった。じょじょに血圧を下げ息が止まった瞬間はわからないくらい静かに眠りについたのである。
母は生前よく言っていた言葉がある。
「1・2・3で死ねたらいいのにね。」
母が死の恐怖感を語る唯一の言葉であった。
また家族にとっても、愛する人の死を見取る事は、想像以上に辛く苦しく、恐怖なことである。
私はそのことに直面した時、足が震え、受け入れることが出来ず逃げ出したい感にかられた。
けれど、ホスピスは家族のケアもまたしてくれるところなのだ。
私は婦長さんに手をとられ、母の病室に足を運ぶことが出来た。
「きちんとみとってあげなさい。後悔しないように。」
「ここはホスピスだから、あなたが想像しているような苦しむ姿はないのよ。」
「そのためにホスピスにきたんでしょう?」
そういわれた。10年経った今でも、あの時お世話になった婦長さんに感謝し忘れることはない。
おかげで最期まで看取る事が出来た。あの時母の病室に入る事が出来なければ、きっと後悔していたと思う。
悲しい母との別れもまた、今の私の糧となっている。
母は桜を見ることを最期の目標にし、散りゆく花とともに静かにこの世を去っていった。
病院を出る早朝。桜吹雪の舞い上がるトンネルを何度も通りぬけて、懐かしい我が家へ帰った。
お母さん、そちらは、穏やかですか?
あなたは幸せな終わり方をしましたね。
母のような治療(緩和ケア)を、希望する全ての方が、受けられる世の中が訪れることを願って・・・。
(12月12日1:55 追加)
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